THEトロッコ


2013 いたいけな鉄








昭和57年10月 樺平








永年トロッコを追っかけてきて、最も印象に残っているのは?
と尋ねられれば、考えることなく『立山砂防軌道』と答えるだろう。
それだけインパクトの強い軌道だったし、
なにより自分たちが注いだ情熱が半端ではなかった。
当時は現場の方々に様々な協力をしていただいたこともあり、
立山での撮影は非常に充実したものとなったのだ。
特にビートたけしが『いたいけな夏』を唄っていた頃、活動は最高潮に達した。
思い出話は尽きないが、それはまた別の項で。


ボクが最後に立山砂防軌道を撮影したのは昭和60年のこと。
そして、その時の旅がトロ鉄として最後の撮影行でもあったのだ。
当時は『最後』という意識はなかったが、
何故か昭和60年の立山以降、トロッコから足が遠のいてしまった。
そんな状況が何年も続き、自分の私生活は多様な変化を経て、
オマケに年齢までそれなりに重ねてしまった。
しかし立山砂防に対する思いが消えた訳ではなく、
いつの日か改めて撮影に行きたいなぁ~、なんて思っていたのだが。


何年くらい前だったろうか、
『立山砂防の規制が厳しくなった』と聞いたのは…?
もともと公開されていた施設ではないし、
なにしろおカミの領域なので、昔から厳しい面はあったから
『さもありなん』みたいな感じで、そう重くは考えなかった。

が、その規制は半端なモノではなかったのだ。
便乗はおろか、軌道敷内の立入も出来ない状態、
水谷へ通じる林道の通行も規制されているので、近寄ることすら困難になったと。
そう聞いても、正直ピンと来なかった。
『なんとかなるんじゃない?』という甘い思いで。


ある時、友人の写真家K君から
『立山砂防の取材に行きたいんだけど…』
と、相談された時だった。
こちらは昔の感覚で、
ちょっと連絡をすれば、問題なく乗れて撮れると思っていた。
そして連絡をしてみてビックリ!
かつて世話になった現場OBの方に電話をしたのだが、状況は前述の通り。
OBであるその方でさえ、便乗や立入は不可能だという事実を知らされた。
この時初めて
『立山砂防軌道は手の届かない処へ行ってしまった』
と、実感したのだった。


昭和51年、立山砂防に初めて訪れた時。
ワクワクしながらも軌道の全貌を捉えられない歯がゆさ、
便乗、接近、その他もろもろの術を知らぬまま
なんとかしたいと手探りで行動していた、いたいけな自分。
まるで、あの頃にリセットされたようだ。
い~や、それよりも酷い状況だろう。
かつては自由気ままに撮り歩けた立山砂防沿線だったが、
現在では柵の外から指をくわえて見ることしか出来ない。
それを承知の上で28年ぶりの再会を目指して旅立った、いたいけな我々であった。








28years after



永遠の嘘をついてくれ










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