新釜石鉱山軌道


Vol.2




撮影日=昭和60年 2月 8日(金)








釜石鉱山は、日本最古の製鉄所である新日鐵釜石製鐵所に鉄鉱石を供給していた鉱山です。
戦前、戦後、そして高度経済成長と、日本の産業を支えてきた鉱山としても過言ではありません。
そんな鉱山で、地道に鉱石運搬を続けていたのが762mmゲージの軌道でした。

釜石鉱山の運搬軌道では、昭和30年代末まで5t鍋型鉱車を使用していました。
762mm軌道での5tというのは、決して小さい方ではありません。
むしろ標準タイプであるとも言えます。
ただ、鍋型という古い方式であることが、作業の妨げとなっていました。
鍋型車は底部が開くホッパー車などとは違い、鉱石を降ろす際には1両ずつ切り離し、
チップラーという施設で鉱車ごと回転するという作業が必要です。
これは、採掘量が比較的少ない金属鉱山などでよく見られました。
が、釜石鉱山のように出鉱量が膨大である鉱山では、至って不合理なシステムです。
出鉱量が増加の一途をたどり、運搬能力は限界に達していました。
軌道の輸送力増強と、作業効率化が求められたのです。

昭和39年から43年にかけて、12tグランビー鉱車への置き換えが行われました。
大型鉱車の導入は、掘削機械の大型化による鉱石の大塊に対応させるという目的もあったようです。
鉱車の軸重アップと長いホイールベースに耐えられるよう、軌道も強化改良されました。
鉱車のグランビー化により、鉱石降ろし作業に於いて格段の効率化が図られたのは言うまでもありません。

グランビー鉱車は車体側部が開き、軌道横の降ろし口に鉱石を落下させる構造となっています。
開口部反対側下にはローラーがあり、軌道横のダンプガイドによって鉱車上部を傾けます。
傾斜すると同時に側面が開き、積んでいた鉱石が落下してゆきます。
ダンプトラックが縦方向に荷台を傾けるのに対し、グランビーは横に傾斜させるのです。
編成を組んだまま連続で降ろせるため、以前の作業に比べると大幅な時間短縮となりました。













軌道のメインターミナル、採鉱所ヤードです。
















鉱石満載の列車が到着。
空車となった列車が、またヤマへと向かってゆきました。
最後尾の小さな車両は、従業員などを輸送する人車です。
種車はかつて鉱石を運んでいた5t鉱車。
















ホッパー前で待機する列車たち










旧い資料の中に、かつて使用していた5t鉱車と
改良導入した12tグランビー鉱車との比較がありました。
参考までに、作図して掲載いたします。
昭和45年頃の資料です。


積載物(編成数) 改良前(~昭和39年) 改良後(昭和39年~)
組成内容 積載量 列車長 組成内容 積載量 列車長
( t ) (m) ( t ) (m)
鉄鉱(3列車) 5t鉱車×24両 133.6 74.4 12t鉱車×12両 141.1 59.4
鉄銅鉱(1列車) 5t鉱車×24両 124.3 74.4 12t鉱車×12両 131.3 59.4
銅鉱(1列車) 5t鉱車×25両 115.8 77.3 12t鉱車×13両 127.1 63.9

※列車長は機関車を含む




これによると、稼働している鉱石列車は5編成ということですね。
15年ほど前の資料ですので、若干異なるかも知れませんが。
銅鉱石運搬では、鉱車が1両多いということも知らなかったです。
手持ちの写真を全てチェックしてみたところ、残念ながら13両編成は確認できませんでした。











採鉱所ヤードに到着する際、通常はこの端の線に入っていました。
時折、このように中央の線に進入する列車もありました。
ひょっとすると、鉄鉱以外の鉱石を積んでいるのかも…(?_?)
鉄銅鉱か銅鉱でしょうか。
広々としたヤード。
カーブを曲がるとホッパーがありました。
お昼休みでホッパーに停車中。
空車列車が発車しました。








資料によると、昭和45年の出鉱量は鉄鉱が1239,720トン、鉄銅鉱が470,702トン、
銅鉱は175,664トン、合計1886,086トンとなっております。
ですが、昭和47年あたりをピークに出鉱量は減少してゆきました。
訪問した昭和60年の総出鉱量は、1050,000トンだったそうです。


下の表は、昭和45年の列車運行本数を表したものです。

積載物 使用編成数 運行回数
一の方 二の方 一の方 二の方
鉄 鉱 3 3 16 16 32
鉄銅鉱 1 1 6 6 12
銅 鉱 1 5 5
ズ  リ 1 1 7 7 14
合 計 6 5 34 29 63

運行回数は実車の本数ですので、(数字)往復となります。




出鉱量だけを単純に比較すると、昭和60年は45年よりも45%減です。
なので訪問当時の運行本数は、30往復くらいだったのかも知れません。
参考までに、昭和55年のデータによると一の方(7:30~15:30)が20往復、
二の方(15:30~22:30)に14往復の合計34往復が運行されていたそうです。
一の方には昼休みが入るため、実働7時間、二の方も7時間なので、前者の方が運行頻度は高いことになります。
ざっと計算すると、だいたい20分おき1往復といったところでしょうか。
感覚としては「頻繁に来た」と覚えていますので、強ち間違いではなさそうです。

鉱石は採鉱所で選鉱されて、ベルトコンベアで陸中大橋駅へと送られていました。
国鉄の貨車によって鉄鉱石は新日鐵釜石製鐵所、銅鉱石はラサ工業宮古精錬所へ運ばれていたそうです。









採鉱所ヤードを出発して大仙坑道へ向かいます
















大仙坑道に入る空車列車





ヤードのはずれから撮影しました。
大仙坑口は、この場面しか撮っておりません。
坑口には扉がありますね。
もう少し接近して観察すれば良かったと後悔しています。











6トンTL  E607



列車を牽く様子を見られなかった6トンTL。
唯一姿を見せたのは、このE607でした。
単機回送で現れたE607でしたが、すぐにまた坑道へと向かって出発。
何しに来たのでしょうか…(?_?)




鉱石列車の合間を縫って、採鉱所ヤードに登場しました。
15トン機に比べると、かなり小柄です。
う~ん❤
ナロームード満点…♪
引き上げ線に転線しました。
鉱車を連ねた姿が見たかったです。
信号待ちのようです。
人員輸送用の臨単だったのかも知れません。






トロッコ好きとしては、やはり大きめの15トンよりも可愛らしい6トンに萌えます。
坑内では5tグランビーを7両牽いていたらしい…
抗外にも出てきたのかしら??
見たかったなぁ~❤






ばいばい!



6トンTL、E607との邂逅。
最後は実車線を逆走してゆきました。









本項で前述した鉱車の大型グランビー化、またVol.1で紹介したTL無線操縦により
新釜石鉱山軌道では大幅な経費節減と増産がなされました。
昭和45年当時の資料には、その内容が記されています。
非常に興味深い数字ですのでご紹介しましょう。

5t鍋型鉱車だった時代は、運搬列車に関わる人員は32名でした。
12tグランビー鉱車導入によってチップラー操作、列車の分離組成の手間がなくなり、
6名を削減して26名での運行となりました。
更に15トンTLに無線操縦機を搭載したことにより、一気に14名分の手間が解消。
その分運転士が担う作業は増加しましたが、運行に必要な人員は18名となりました。
合理化前と比べると、なんと56%の人員でまかなえるようになったということです。
これらの対策により、年間16,562,000円の経費が削減されたそうです。
また一日742トン、年間で25万トンの増産となり、絶大な効果を得たとのことです。












通洞坑口





歴史を感じるポータルですね。
坑内の安全を願う神棚が印象的です。
TLの前照灯が接近して来ました。














坑口を出ると国道283号を跨ぐ橋を渡ります
















国道から見るとこんな感じ





結構目立ちますよね…
この橋は現存しているそうです。
軌道も…(^^♪












一度に運ぶ鉱石は、約140トンです。
ホッパーにあった標識
グランビー鉱車を傾けるローラーは折り畳み式になっています。
畳んだ状態ですと、ローラーがダンプガイドに架かりません。
TLの車庫&修理場。

















今なお軌道が残っている?!





Vol.1で触れましたが、仙人秘水というミネラルウォーターを産出するため、
TLが活躍していた通洞坑、そして軌道も現存しているとのこと。
鉱脈は枯渇しておらず、研究用として年間100トン程度の採掘が続けられているとも聞きました。
このような例もありますので、釜石以外にも未だ残る軌道があるのかも知れません。















極狭小人車も…?!





今や疑問を感じたら即ネット検索、そして簡単に答えが分かる。
そんな時代ですが、釜石鉱山の現在も垣間見えてきました。
この小さな人車も現存しているようです。
保存なのか、放置なのかは分かりません。
でも、30年ぶりに陸中大橋へ行きたくなりました。
自分の目で確かめるために(^_-)-☆















戦前生まれのE151。
手前の屋根は人車?
日本の製鉄産業を支えた老兵。
役目を終えた車両たちが雪に埋もれていました。










我が国は狭い国土の割には鉱産資源が豊富であり、古くから鉱業が盛んで、
石炭、鉄鉱をはじめ、金、銀、銅などの非鉄金属など、様々な鉱物が産出されていました。
しかし、エネルギー流体革命、資源の枯渇や乱掘による品位低下などで状況は一転します。
採掘コストの増大により、輸入鉱物との価格差が生じたことも大きな理由だったでしょう。
零細な鉱山は次々と閉山に追い込まれました。
日本の産業を支えてきた大手の鉱山でさえ例外ではありません。
20世紀の終わりと共に、殆どの鉱山は閉山されました。

鉱山の終焉、それはナロー軌道にとっても大きな転機でした。
鉱山、特に金属鉱山には、運搬用の軌道が必ずと言ってよいほど用いられていたからです。
昭和50年代には多くの鉱山が操業を続けていました。
鉱山を訪ねれば、未知の軌道と巡り会える可能性が高かったのです。
そのおかげで、ボクたちトロ鉄は楽しめたのですから。

この釜石鉱山もそうでした。
よく覚えてはいませんが「軌道はあるはず」くらいの情報での訪問。
ふたを開ければ、ご覧のように期待通りの結果です。
現在のように情報が飛び交う時代ではありません。
当時は、「たぶん」とか「きっと」というレベルで探索していました。
だからこそ軌道を目の当たりにした瞬間、胸ときめいたのでしょう。
何もかも知り尽くしたうえでの出会いは呆気ないものです。

今なお存続している鉱山は、大半が石灰石を採掘しています。
皮肉なことに、石灰鉱山に軌道が存在する確率は低いのです。
ですから、あれだけたくさんあった鉱山軌道も過去のもの。
「鉱山軌道なんてつまらないよ」と、贅沢言っていた自分が歯がゆいです(-_-;)













わが国有数の鉄鉱山の軌道を見られてよかった…




なんだか素直にそう思います。
と同時に、当時つまらんと思っていた軌道にも足を向ければ良かったとの後悔も(T_T)/~~~















活気ある最後の時代だったのでしょう…





釜石鉱山は平成4年に銅鉱、翌5年には鉄鉱の採掘を終了しました。
享保12年に磁鉄鉱が発見されて以来、266年の歴史にピリオドが打たれたのです。
閉山前から、鉱山施設を他事業に転換しようという試みが行われていたそうです。
いくつかの失敗を経て、辿り着いたのがミネラルウォーターでした。

鉱山の灯が消えようとしていた平成元年、仙人秘水の名でミネラルウォーターの出荷が始められました。
なんでも鉱山周辺の豊かな環境が、上質の天然水を生み出すそうです。
仙人秘水のボトリングは坑道内で行われており、維持管理や資材運搬のために軌道が残されているようです。
架線は撤去され、稼働するのはBLですが、バリバリの現役軌道ですね。
非常に興味深い存在です。















在りし日の雄姿
















トロッコの轍は途絶えていなかったのか…








新釜石鉱山軌道を撮影後、国鉄釜石線で上有住に移動。
石灰石を産出する大洞鉱山軌道を訪問しました。
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参考文献=村島一郎氏「釜石鉱山における採鉱の近代化と主要運搬坑道の列車遠隔操作について」
早稲田大学 鉄道研究会 専用線研究グループ著「専用線研究」


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