ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道
Waldviertler Schmalspurbahn
2000年 9月 2日(土)
【行程】
Wien West bf →(市電 )→ Wien Franz-Josefs bf 9:05→(普通)→ Gmünd Nö 11:20
Gmünd Nö 11:40 →(DL牽引)→ Weitra 12:13 →(タクシー 旧市街~汽車追っかけ)→
Weitra 14:03 →(蒸機牽引)→ Abschlag → (鉄チャン車便乗)→ Langshlag
Langshlag 16:36 →(蒸機牽引)→ Gmünd Nö
Gmünd Nö 18:40 →(普通)→ Wien Franz-Josefs bf 20:55
Wien Franz-Josefs bf →(市電)→ Johanstraße →(市電)→ Wien West bf
ヴィーン西駅前
2000年のヨーロッパ撮影旅、最初の滞在地はヴィーンでした。
宿泊したのは西駅から徒歩1分のホテル Dorint am Europaplatz です。
ここに三連泊しました。
9月2日、朝5:30に起床。
朝食後、支度をして8時過ぎにホテルを出発しました。
生憎の空模様で、路面は濡れています。
ヴィーン西駅前から市電に乗るのですが、今後何度か乗る機会があると思われますので、
三日間有効の『72時間ヴィーンチケット』を購入しました。
150シリング(AS)、約1180円です。
市電に乗って向かうのは、ヴィーン・フランツヨーゼフ駅です。
本日のターゲット、ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道の始発駅、
グミュントまで行く列車はフランツヨーゼフ駅から出発するのです。
ヴィーンには西駅、南駅という大きなターミナル駅があります。
フランツヨーゼフ駅は、かなりマイナーな存在…。
かつてはチェコとを結ぶ交通の要衝として栄えたそうですが、
現在ではローカル列車が細々と発着するのみです。
ヴィーン市電は総延長180kmほどもあり、市内交通には欠かせない存在となっています。
道路の両端を走る区間があったり、電車の幅ギリギリの裏路地を走ったり、
突然地下区間に入ったりして、乗っていても飽きることがありません。
何より可愛らしい車体に赤白のカラーが似合っていて、なかなか萌えます(笑)
雨の車窓
お散歩? それともお出かけかな?
ヴィーン・フランツヨーゼフ駅前
フランツヨーゼフ駅からグミュントまでは約二時間かかります。
アクセスの便が悪いので、今回の旅ではヴァルトフィアトラー狭軌鉄道を
撮影対象として良いか否か正直少々悩みました。
しかし事前調査によると、独特の雰囲気を持った汽車のようですから…。
不便な処にわざわざ行くというのも鉄チャンの醍醐味だったりして(@^^)/~~~
ローカル列車なので、普通の客車が数両連なって機関車に牽かれてゆくのかと思いきや、
待っていたのは元ICの電車でした。
最初にオーストリアを旅した9年前、
本線でIC(都市間特急)として運行されていた同型の電車に乗ったことがあります。
ボクらのユーレイルパスは1等なので、
元特急車両の豪華なコンパートメントで快適な移動を楽しめました。
フランツヨーゼフ駅の名の由来は、
かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝だったカイゼル・フランツ・ヨーゼフⅠ世だそうです。
またこの路線、ヴィーンからグミュント、チェスケー・ブデェヨビツェ、ターボル、
そしてプラハまでの区間を Kaiser Franz Josephs bahn = カイゼル・フランツ・ヨーゼフ鉄道と称するとか。
恥ずかしながら、これは帰国後に知ったことですが…(+o+)
ヴィーン・フランツヨーゼフ駅 乗ったのは左の電車
途中で見かけた可愛い駅舎
Gmünd Nö ~ Groß Gerungs 43.1km 760mm spur,
グミュント駅に到着したのは11:20でした。
ここの駅名は Gmünd Nö と表記されています。
Nö とは グミュントが所在する州の名、Niederösterreich(ニーダーエスターライヒ)の略です。
ヨーロッパでは地名(駅名)の後に州や地域の名を付けることがあります。
代表的なのは Frankfurt am Main でしょうか…
目的の狭軌鉄道は、駅前に出てみるとすぐに見つかりました。
しかし、乗り場には人影がなく寂しい雰囲気…
なんとなくヤバそうな気配も感じました(+o+)
ナロー探索ではよくあることです(笑)
構内を見回してみても様子は同じで、
この軌道が現役なのか廃止されたのか、判別できないくらい微妙なラインでした。
しかし、ケムリの匂いを頼りに見つけた機関庫の中では、
本日運転されるであろうÖBBの399型蒸気機関車が始業点検を受けています。
尋ねてみると、間違いなく運転されるとのことで、ひと安心。
ホームに戻ると、DLに牽かれた列車が準備されていました。
2095型ディーゼル機関車にボギー客車が2両。
ナローらしい可愛らしい編成で、気分は盛り上がって来ました。
グミュント駅 | |
駅前通り | |
狭軌と標準軌が入り組む構内 | |
2091型(左)と2095型ディーゼル機関車 | |
ロルヴァーゲンに載せられた標準軌の貨車 | |
2091型ディーゼル機関車 | |
2095型ディーゼル機関車 | |
この列車に乗って出発(^O^)/ | |
ここで降りましょう~♪ |
『廃止されちゃった?』との懸念がよぎったものの、ともかく無事で何より…
ひと安心したボクらを乗せた列車は、定刻の11:40に発車しました。
二両の客車に乗客は数名。
検札に来た車掌は、ボクたちが差し出したユーレイルパスをしげしげと眺め、
これは使える?使えない?と悩んでいました。
オーストリア国鉄の路線なんだから、使えて当然じゃないの?と、こちらは思うのですが、
ド田舎のローカル線ではユーレイルパスを提示する客など居ないのでしょう、
過去にも同じ状況になったことが何度かあります。
結果としてはOKでしたが。
但し、蒸気機関車の牽引する列車には通用しないと言っていました。
更に車掌氏は、この路線は来年春には廃止されるだろうとも…
最初に感じた予感は、ある意味的中していたのかも知れません。
ヴァイトラ駅
怪しい空模様が徐々に好転し、ヴァイトラでは青空が広がっていました。
交換した気動車は、ボクたちが乗ってきたレトロな列車とは違う新型車両。
これは5090型気動車で、
オーストリア国鉄の狭軌線に於ける近代化と運行の効率化を目指し、
1980年代に開発されました。
1995年までに17両が製造され、
ピンツガウ鉄道、ムルタール鉄道、シュタイアタール鉄道などで活躍しました。
ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道には2両が在籍していました。
グミュントから乗ってきた列車を牽引していたのは2095型ディーゼル機関車。
蒸気機関車によって運行されていた狭軌線の近代化のため、
1958年から1962年にかけてヴィーンのフロリツドルフで15両が製造されました。
ロッド式駆動が鉄チャン的に萌えます(@^^)/~~~
ロッドを忙しく動かし 出発してゆきました
ボクたちは、対向の気動車と交換したヴァイトラ駅で下車しました。
午後に来る蒸機列車は、ヴァイトラで15分程停車するため、
撮影には好都合だと判断したからです。
ヴァイトラは交換設備がある小さな駅で、駅長さんが一人で勤務していました。
駅長さんによれば、ヴァイトラは旧い城下町で、
キレイな町並みが残っているから是非見て来た方が良い…とのこと。
ならば! と、駅長さんにタクシーを呼んでもらい、旧市街の見物に出かけました。
ヴァイトラ旧市街までは、タクシーを使う程の距離ではありません。
しかし、その後の撮影にタクシーを活用したかったという理由がありました。
こじんまりとした佇まいのヴァイトラ旧市街は可愛らしくもあり、
落ち着いた風情でもありました。
町は1201年に設立され、城が築かれ、農業、林業、そしてビール醸造で栄えました。
かつては22を数えたビール醸造所ですが、現在では二箇所が残るのみとなっています。
手入れの行き届いた駅 | |
出札口 | |
旧市街へと通じる駅前通り |
ヴァイトラは日本では紹介されることが殆どない町で、
それ故に情報が少なく、調べてみても掴みどころがありません。
しかし、興味深い事実が判明しました。
あのアドルフ・ヒトラーに関わる話…
アドルフ・ヒトラーの実母、
クララ・ヒトラー(クララ・ペルツル)が生まれた町がここヴァイトラだったのです。
クララはアドルフの父、アロイス・ヒトラー宅の住み込み家政婦として16歳から働くようになりました。
そしてアロイスの三番目の妻となり、29歳の時にアドルフを生んでいます。
クララはアロイスとの間に6人の子を設けましたが、
うち4人は早世し、成人したのはアドルフともう一人だけだったとか。
クララはアドルフが18歳の時、乳癌で亡くなりました。
クララを治療したのはユダヤ系の医師、エドゥアルド・ブロッホでした。
母の死で絶望の淵に立たされたアドルフを見たブロッホ医師は、
『私の一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった』
という言葉を残したそうです。
ブロッホ医師の治療に対し、アドルフは深い感謝の念を抱いたようで、
彼がユダヤ人でありながらゲシュタポの保護下に置き、アメリカへの亡命まで許可しました。
そんな深い話があったとは、訪問当時は全く知りませんでした…(-_-;)
街の門
旧市街広場 | |
市庁舎 |
この日最大のターゲットであるヴァルトフィアトラー狭軌鉄道の蒸気列車は、
起点のグミュント駅を13:32に発車します。
この汽車は運行回数が比較的少なく、訪れた2000年では年間14日だけ。
それでも当時のトーマス・クック社ヨーロッパ時刻表には掲載されていました。
そんな希少な汽車を撮影しようというのが本日の目的です。
ヴァイトラの町見物を終え、タクシーで沿線に向かいます。
車窓から大まかにロケハンしていたこともあり、撮影地はある程度決めていました。
タクシードライバーと撮影箇所と追跡の段取りを打ち合わせ。
二ヶ所で撮影し、ヴァイトラ駅から汽車に乗るという寸法です。
汽車の切符は町へ行く前に購入済み、
終点のグロース・ゲルングスまで180シリング、約1400円でした。
アルト・ヴァイトラ ~ ヴァイトラ間
アルト・ヴァイトラ ~ ヴァイトラ間
アルト・ヴァイトラ~ヴァイトラ間
ヴァイトラ駅を見下ろす陸橋 何とか間に合ったか…
タクシーによる追っかけ撮影は成功を収め、無事にヴァイトラ駅から汽車に乗れました。
牽引する蒸気機関車は ÖBBの399型、399-04号機です。
この形式は、マリアツェル鉄道がクラウス社に発注したMh1型で、
1906年から1908年にかけて6両が製造されました。
元の形式Mhの『M』は、マリアツェルの頭文字に起因します。
マリアツェル鉄道がオーストリア国鉄に併合されたのち、形式を399型に変更しました。
ドイツ占領時代は、DRのナンバーで99-11型がつけられたこともあったそうです。
マリアツェル鉄道は1911年に電化され、6両の399型はオーストリア各地の狭軌鉄道に分散されました。
399型の特徴は、タンク機でありながらテンダー機と見紛う炭水庫を持っていること。
炭水庫の下には二軸の車輪があるので、益々テンダー機のようです。
機関車と炭水庫は連接構造になっており、切り離しも可能。
純粋なタンク機というよりも、テンダー機との合いの子みたいな機関車です。
この構造を如何に説明するか、拙著を制作する際に調べたところ、
どうやら『シュレップテンダー』という表現をするらしいです。
連接構造なので全長の割に曲線に強く、
尚且つ第二、第四動輪は横方向に遊びがあり、第三動輪はフランジレス、
これらによって更に急カーブを得意とする設計になっています。
訪問当時、ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道には
少なくとも2両の399型が在籍し、他にタンク機の298型もあったようです。
ピ~ス!は万国共通(^_-)-☆ | |
汽車は皆を笑顔にする… | |
シュタインバッハ グロース ペルトホルツ駅 | |
フランジの無い第三動輪 | |
汽車旅は楽しいね~♪ |
牽引される客車は年代物の二軸車です。
素性の詳細は判りませんが、各車両には沿線の町の名やマークが掲出されていました。
注目すべきは食堂車!
ナローゲージの二軸車なのに、車内は立派なレストランでした。
ここでは地ビールや軽食が楽しめますが、
乗った車両の賑やかな一行は過度なアルコール摂取で異常に盛り上がっています。
彼らはシュナップスと呼ばれる強い蒸留果実酒を一気飲みしていました。
珍しいヤーパンを見つけると、ボクらは餌食となり、
『さあ!飲め!』とばかりにグラスを勧められました。
酒は好物ですからご相伴にあずかると、推測45度のアルコール度数を体感!
『おー!キツいけど イケるぞー!』
と、平気で呑むボクらに一瞬引いた様子でしたが、
立て続けに勧められてしまいました(笑)
シュタインバッハ・グロース・ペルトホルツ駅に数分停車、
次のアップシュラークでは給水のため、またまた10分くらいの停車です。
駅の先を見るといい感じのカーブがあり、
ボクたちは急きょ予定を変更し、ここで撮影することにしました。
アップシュラーク ~ ブルデルンドルフ間
この時、隣で一緒に撮影していた現地の鉄チャン、
確かオーストリア人だったと思いますが、彼のクルマに便乗させてもらうこととなりました。
これは同行していたK君が『乗せてくれそうな気がする…』と、
声をかけて交渉が成立したという経緯があります。
日本でもクルマで追いかける鉄チャンは多いですよね。
鉄道ファンの本場でも追いかけ~先回りで撮影するのは定番のようで、
鉄チャンは非常に段取り良く案内してくれました。
二ヶ所で撮影、そのあと教会の傍に静態保存された298型蒸気機関車を見てから
ランクシュラーク駅まで送ってもらいました。
ブルデルンドルフ ~ ランクシュラーク間
駆ける! | |
ランクシュラークの教会 | |
世話になった地元鉄チャン | |
石造りのキロポスト | |
町の踏切 |
ランクシュラークからは16:36発の汽車に乗ってグミュントまで帰ります。
終点のグロース・ゲルングス駅を見られなかったのは残念ですが、
撮影内容としてはまあ及第点だったと思います。
なにしろ一往復だけの汽車ですからね。
効率よく行動しないと、マトモに撮影出来ません…(+o+)
ランクシュラーク駅の手前で構内へ進入して来る様子を撮影し、
大急ぎで汽車に乗り込みました。
ハルック ~ ランクシュラーク間
この汽車に乗って帰ります…
ランクシュラークからグミュントまでは、約一時間半の汽車旅です。
往路の列車と同様に、アップシュラークでは機関車に給水が行われました。
その時間を利用し、乗客たちは機関車に近寄って楽しんでいます。
機関士は興味津々の子供を運転台にに乗せたり、鉄チャンと談笑していました。
日本の蒸機保存運転ではギスギスと『あれはダメ!これもダメ!』的な雰囲気が定例となっていますが、
こちらでは至ってのんびり、ほのぼのと誰もが自由に汽車に接し、そして楽しんでいます。
保存鉄道や蒸機動態保存って、ホントはこのような姿なんだなぁ~と、改めて認識しました。
食堂車でK君と『お疲れさま~』の乾杯。
ここではヴァイトラのビール『ヴァイトラブロイ』が味わえます。
汽笛とケムリとビールなんて最高!
まさに『至福の時』でした。
ランクシュラーク駅 | |
アップシュラーク駅で給水中 | |
食堂車 | |
ずっと乗っていたいなぁ~ |
グミュント駅に着いたのは18時過ぎ、陽も暮れかかっていました。
定期の列車には僅か数人しか乗っていなかったのに、
到着した汽車からはざっと100人くらいのお客が下車しました。
閑散とした定期列車の車内、
対照的に蒸気列車はほぼ満席で大盛況…
ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道は、この時既に地元の交通手段としての役目は終わりつつあり、
観光鉄道への転身を図っていたのでしょう。
思い返してみると、そんな光景だったと感じます。
僅か数時間の滞在では、さすがに物足りない…
なんだか少~しだけつまみ食いしただけのようで、
達成感も無く、不完全燃焼のままグミュントを去りました。
18:40発の列車でヴィーン・フランツヨーゼフ駅へ。
20:55に到着後、市電に乗ってヨハンシュトラーセで途中下車。
夕食をとって、また市電に乗り、ヴィーン西駅へと帰りました。
黄昏のグミュント駅
車庫へ向かう399-04
チェコの列車 グミュントは国境駅です | |
ヴィーン・フランツヨーゼフ駅の入換用電機 |
市電で帰る路
ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道は、訪問の翌年(2001年)にオーストリア国鉄の路線として廃止されました。
往路に乗った列車で、車掌さんが言っていた通りになってしまった訳です。
廃止されたとはいえ、観光保存鉄道として健在です。
ヨーロッパでは、路線が廃止となっても『終わり』ではありません。
新たな活路を見出し、旧き善き時代の姿を後世に残してゆくのです。
歴史的価値のある鉄道は文化財として保護されるという風習は、
容赦なく廃止撤去を繰り返すのを見慣れてしまったボクたちにとって、非常に羨ましい…
日本の仕組みも何とかならないものでしょうか?
とは言っても失ったものが多過ぎて、もはや手遅れかと思いますが…
ヴァルトフィアトラー狭軌鉄道は新たなスタートをきりました。
現在の経営はNÖVOG
(Niederösterreichische Verkehrsorganisationsgesellschaft
ニーダーエスターライヒ州交通会社)
が行っています。
NÖVOGはニーダーエスターライヒ州の狭軌鉄道など、
国鉄から切り捨てられた閑散路線や観光鉄道を合理的に存続させてゆけるよう設立されました。
かのマリアツェル鉄道、シュネーベルク鉄道などもNÖVOGの傘下となっています。
ヴァイトラで撮った近代型気動車5090型は、
2001年以降に全車マリアツェル鉄道へ転出したという記録がありますが、
2014年の時刻表によると塗装を変更した同形式が運行されています。
ロッド式のディーゼル機関車2095型は2両が残存し、
蒸気機関車と交代で二軸客車を牽引しているようです。
蒸気機関車は399型が3両あり、主に399-03が使われているとのことです。
399-02 と 399-04 は休車状態にあるようで、
ホームページによると『走行不可能でグミュントに置かれている』と記されていました。
詳しい情報はヴァルトフィアトラー狭軌鉄道HPをご覧ください。
ヴァイトラ駅
【使用機材】
コンタックスG2
キャノンT90
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