DD54 12 播但線 生野駅 昭和53年 2月16日
無煙化が推進されていた時代、その主役はDD51型ディーゼル機関車でした。
DD51は高性能で、日本を代表するディーゼル機関車ではありましたが、
エンジンと変速機が二基ずつ搭載されているためメンテナンス面が煩雑であり、
これらを改善した新形式が新たに求められました。
当時、ヨーロッパ各国では大出力エンジンを一基搭載したディーゼル機関車が活躍し、
製造から保守までのコストダウンに成功していたと言われています。
そこで新三菱重工業が西ドイツのマイバッハ社からエンジンと変速機を輸入し、
DD91型ディーゼル機関車が試作されました。
日本では大出力エンジン、またそれに見合う変速機の設計、製造をする技術が乏しく、
新形式を造るにあたり、先進国からの供与を受けるしか術が無かったそうです。
DD91は山陰本線と福知山線で試運転が繰り返し、ノウハウを生かして新たな形式が設計されました。
それがDD54型ディーゼル機関車です。
DD54のエンジンと変速機は、三菱重工がマイバッハ社からライセンス供与を受けて製造しました。
ドイツの流れを汲む外観は流麗で、他に例を見ない独特なスタイル。
DD51に比べて小型軽量化されたものの、1820馬力という高出力を誇り、ひけをとっていません。
昭和41年から46年にかけて40両が量産。
福知山機関区に配属され、山陰本線と周辺の路線で活躍しました。
しかし、DD54には致命的な欠陥がありました。
それは設計ミス、推進軸の強度不足です。
昭和43年以降、推進軸の落下による事故が頻発。
走行中に軸が脱落し、道床に刺さって車体が持ち上がり、脱線転覆するという重大事故もありました。
高性能エンジンゆえに推進軸への負担が大きかったのでしょうが、設計自体にもミスがあったようです。
DD54はB-1-Bという変則な車軸配列です。
中間台車は軸重を軽減し、低規格の路線にも入線できるよう考慮されていました。
もしも中間台車を採用しなければ軸重は17.5tにもなり、DD51の14tを大きく上回ります。
これでは亜幹線向けの機関車としては不都合です。
こうして中間台車が採用されたのですが、更に関連する問題もありました。
エンジンと変速機は1エンド側に寄った位置にマウントされ、前後の台車に延びる推進軸の長さが異なり、
特に2エンド側への軸は長過ぎて、これが設計上の欠陥だという指摘があります。
いくらハイパワーのエンジンでも、長い軸を介しては車軸に伝達するのにロスがある、
前後で軸の長さが違うのでパワーバランスに問題がある、というものです。
また、マイバッハ社のライセンス供与という点もマイナスだったようです。
契約上の規制が多く、故障個所に手を加える際も社の了承を得ることが必要とされました。
変速機の構造は複雑で、当時の日本の技術者では手に負えない代物だったとも言われています。
よって修理期間は増大し、運用に多大なる影響を与えて収拾のつかない状況となり、
DD54には”欠陥機関車”のレッテルが貼られました。
DD51よりも保守面で改善したいという意図から導入した形式でありながら、
実際に費やしたコストはDD51の18倍だったという説もあります。
無煙化が完了して数年、今度は問題山積の欠陥機関車の淘汰が開始されました。
DD54たちは次々と追われてゆき、昭和53年6月には全機が引退しました。
製造から廃車までの期間は最短で5年足らず、最長でも10年という稼働であり、
多額の開発費と製造費がつぎ込まれていたことから、この件は大きな問題となったそうです。
鉄チャン的には外観に実力が伴わないアンバランスさ、
可愛いけれど歌が下手くそなアイドル歌手みたいな感覚?
例えが変ですが(笑)、活躍期間が短い、特徴的な外観ということで人気はありました。
或る意味伝説的な車両だったとも言えると思います。
ボクにとってDD54は、C57の前に連結される邪魔な奴というイメージがありましたが、
いつしか『カッコいいDL』というものに変化していました。
ちゃんと撮影したのは最後の冬だけ。
マトモな写真って…(?_?)
ちょっと微妙ですが、まあ晩年の雄姿ということでご容赦ください。
【撮影日】
昭和53年 2月 14日
昭和53年 2月 16日/1
昭和53年 2月 16日/2
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