東洋活性白土

撮影日=昭和52年 8月 9日(火)







前日、名古屋からの夜行急行『むろどう』で立山入りしたものの、
待望の立山砂防軌道は雨降りでマトモに撮影出来ず。
朝、千寿ヶ原で少し撮っただけで撤収しました。

雨なら蒸機が良かろうと東洋活性白土を訪れてはみたのですが、
工場は休業だったのか軌道は稼働しておらず断念。
青海、親不知でナロー軌道を探索しましたが、
怪しげな索道とインクラインを見つけただけで成果はナシ。
なんだか無駄な一日を過ごしてしまったような感じでした。


糸魚川の安宿に泊まったような記憶もありますが、
もしかすると北陸周遊券駆使の急行『立山』敦賀往復をしたかもしれません。
この方法は尾小屋鉄道へ行っていた時代から使った手で、
富山発22:40の上り『立山3号』に乗り、午前2時過ぎに敦賀到着。
ここで下り『立山3号』に乗り換えて来た道を戻るのです。
上下の『立山』共に敦賀駅では停車時間が長く、交換するようなダイヤだったはずです。
かなりキツいですが、待合室で寝るよりは楽でした。
乗り過ごしたり、列車の遅延などで失敗したということは無かったと思います。
今では考えられない、若さゆえの行動でしたね(笑)


さて、この日最初の写真は糸魚川駅前から始まっています。
なんと東洋活性白土のマイクロバスが写っていました。
これで駅と工場の間を従業員送迎していたのでしょうね。
糸魚川駅から工場までは1kmくらいはあったと思います。
いつも歩いて行っていたのですが、途中の道や風景などは全く記憶がありません。
ただ、工場のあった場所は海に近い位置であり、防波堤から眺めた覚えはあります。

撮影した時の様子、お昼に何を食べたなど、行動については失念しているので不明です。
こんなことなら、その都度細かくメモしておけばよかったと後悔しきり(ーー゛)
ですが、写真の方はそこそこ撮れていますので、まあ良しとしましょう。











糸魚川駅前の社バス。
工場を訪れた時、2号機は未だクラの中でした。
奥に眠るのは素性の知れぬ謎の機関車1号機。
静かな息づかいで出番を待っていました。










工場に着いたのは何時くらいだったのでしょうか?
機関車が出庫する前だから8:00とか?



機関車を世話していたのは運輸課長の松沢さんでした。
訪れる度に優しく接してくださいました。
機関車も優しく整備されていたのでしょう、2号機はいつもキレイでしたから。


やがて2号機は車庫から出て、松沢さんの手により始業点検が行われました。







クラから出た所で整備を受けます。
ロッドにオイルを。
昭和31年 協三工業製。当時は21歳かぁ… 意外と若いですね(笑)
念入りな点検が続けられました。
今日も元気に走っておくれ!










東洋活性白土専用軌道の用途について少し説明しましょう。
軌道は工場と国鉄と接続する積換ホームの間を結んでいました。
距離は約700mだとか、800mなどと言われておりましたが、正確な数値は不明です。
工場構内には軌道が入り組んで敷設されており、
急曲線区間には機関車が入れないため、
積上がった運搬車を人力で貨車を押す姿が見られました。

工場では活性白土と酸性白土が製造されていました。
どちらも一般人には馴染みの無いモノですよね。
ボクも詳しいことは判りませんが、調べてみると石油精製などに用いられるそうです。
その製品は20kgくらいの紙袋で出荷されていました。

運搬に使われたのは二軸の貨車。
側面は下開きのアオリ戸になっているようです。
積卸は全て手作業で、かなりハードな作業のように見えました。
運搬車の最大積載量は3000kgだとか。
最大で5両編成になりましたから、満載ならば約15トン以上ですね。


原料の搬入はトラックだったそうです。
運搬車が荷を積載するのは、基本的には工場⇒積換ホームだけでしたが、
ひと月に三度ほど重油を積んだタンク車が、積換ホーム⇒工場に運行されました。
その様子は こちら でご覧ください。
国鉄のタンク車から小型タンク車に移し、工場間を日に何往復かする日がありました。
かつては製造過程で用いる硫酸もタンク車で輸送していたそうです。
硫酸輸送はパイプラインの竣工により廃止されましたが、
粘度の高い重油は導管輸送が困難なため、タンク車での運搬が残されていたと聞きました。

積換ホームでは、運搬車から建屋を介して国鉄の貨車へと製品が積み込まれました。
間にベルトコンベアがあったようですが、やはり作業がキツいのでしょう
常に何名かの従業員が、運搬車に積んだ製品の上に乗って同行していました。


工場から積換ホームまでは推進運転です。
機関車の頭は工場側、運搬車を積換ホーム側に従えていました。
タンク車も同様です。
即ち、汽車は常に機関車が前向きの状態で運行されていました。
積換ホームに機回し線が無いことが要因かと思われます。










車庫を後にし、いよいよ出動です。
左のパイプは重油搬入用かな?
給水&おめかし(*^^)v
名物のポプラ並木。
羅須地人鉄道協会さん所有の車両たちが置いてあります。
工場へと向かいます。










東洋活性白土の敷地内は、とても『工場』という雰囲気ではありませんでした。

渋い木造建屋、キレイに手入れされた庭木など、
場所によっては博物館?学校?みたいな風情を感じたくらいです。

そこにナローの軌道が敷かれているのですから、ボクらにとってはたまらない環境でした。












箱庭蒸機❤













本社屋前には、何故かプラットホームが…
各工場建屋には、枝分かれした軌道が延びていました。
建物の中に製品が見えます。ここが積込場のようですね。
製品を運搬車から大型トラックへ積換えていました。
荷が揃うまで待機しています。
















本社屋と2号機。













プレートもライトも無い、至ってシンプルな外観。
かつて頚城鉄道で活躍したラッセル車。
762→610mmに改軌されています。
羅須地人鉄道協会さん所有。
現在は成田ゆめ牧場にて動態保存中!
雨上がり。















さあ!運行に出発です。













工場のはずれで汽車を待ちます。
北陸本線のEF81が疾走してゆきました。
明星セメントの専用線も眺められます。
いっつも見ていたのに、あのDLをちゃんと撮ったことがありません…
来ました!
降雨の心配があるのか、製品にはシートが掛けてあります。









工場を後にした汽車、おとなしく目前を通過したのですが、その直後から力行開始!
黒煙を舞い上げて迫力ある姿を見せてくれました。
\(^o^)/








































































やったね!
煙バッチリ~(^O^)/








国鉄との接続地点。
運搬車を置いて単機で戻ります。
工場へ向かって走り去りました。










さて、ここで2号機について紹介しましょう。

東洋活性白土株式会社の創立は昭和11年のことでした。
第二次大戦中は陸海軍監督工場となり、航空機燃料の精製にも加担しましたが、
爆撃によって製油所が壊滅して需要が激減します。
終戦後、昭和20年代後半からは製油所の復興に比例して需要は回復してゆき、
徐々に生産量が増加し、その分会社の規模も拡大してゆきました。

運搬軌道が敷設されたのは昭和25年頃だそうです。
他の鉄道に比べると、意外と歴史が浅いんですね。
軌道敷設の際、富山の不二越鋼材という会社から軌条、車両などを購入しました。
この時入線したのが1号機だと伝えられています。
フランスのドコービル社型をコピーしたと言われていますが、
具体的な製造所や経歴が全く不明という謎の機関車です。


この1号機の後継車として発注されたのが2号機でした。
福島県の協三工業で、昭和31年に新製。
もともとは762mm規格の設計だったらしく、
610mm軌間の機関車としては、やや大柄なようです。
主力機として活躍し、路線廃止までの任務を全うしました。
一度、致命的な故障が発生した際にはDLに置き換えるという案が出たそうですが、
希少な現役軽便蒸機ということもあり、修繕して長らえたとのことです。

昭和57年10月、廃止前日の最終列車ではヘッドマークを掲げて先頭に立ちました。
現在は糸魚川市のフォッサマグナミュージアムにて静態保存されています。



【東洋活性白土2号機】

 全長  4450mm
 全幅 1550mm 
 全高 2521mm 
 機関車重量 5t
 運転整備重量 6t
 車軸配列  0-B-0
 軌間  610mm
 製造所  協三工業
 製造年  1956年






















軌道の運行には、特にダイヤなどは設定されていなかったと思います。
その日の作業の流れ、製品の出荷具合で変動するのでしょうから、
運行が不規則になるのは仕方ないでしょう。

ですが、出荷には国鉄貨車との絡みがありますから、
恐らく時間帯の制約はあったはずです。
●時頃に貨車が積換ホームに付けられ、○時頃に引き上げる…みたいな。

その辺の細かいことは、当時全く気にしていなかったので聞いていません。
撮影するだけではなく、諸々突っ込んで取材すべきだったと後悔しています。













短編成もサマになりますね…(*^^)v














Cloudy sky













暫し小休止
貯炭場でしょうか?
渋い社屋ごと動態保存して欲しかった…
手入れの行き届いた庭木
事務所から















ポプラ並木














帰り道












片ときも手間を惜しまず愛情を注いで。
汽車の轍が日常でした。
そんな日々が永遠に続けば良かったのに…















散歩道














力行し、林に分け入ります。













その向こうを485系が走り去ってゆきました。













積換ホームへと接近します。














積換ホーム。
軽便の風情が漂いますね。















模型で蘇らせたい光景ですね。













国鉄の車両が大きく見えますね。
工場へ帰る汽車が出発しました。










この頃、鉄チャン界ではナロー軌道はまだまだマイナーな存在でした。
しかし、東洋活性白土は蒸気運行ということもあり、
かなり注目を浴びていた軌道だったと思います。
それでも、現場では他の鉄チャンと一緒になることは少なかったですね。
長閑な、いい時代でした。









並木道を車庫へと向かいます。
水を飲ませ、間もなく運行終了です。















お疲れさん… 今日もありがとう!










【1977年 8月 9日撮影】







ペンタックスMX



ペンタックスSP-F















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1977.8.10 立山砂防軌道へ


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