立山砂防軌道・その他



撮影日=昭和52年 8月 8日(月)







近鉄ナロー線を二日間撮影し、名古屋から夜行急行『むろどう』に乗りました。
資料によると、急行『むろどう』は名古屋~富山間を『のりくら6号』に併結。
富山から富山地方鉄道に乗り入れて立山まで運転されていました。

当時、富山地鉄には大阪からの急行『立山』、名鉄の特急『北アルプス』、
名古屋からの急行『むろどう』がそれぞれ富山~立山間に、
大阪からの急行『立山』と名古屋からの急行『うなづき』が
富山~宇奈月温泉間に直通乗り入れをしていました。
確か季節限定だったような覚えがありますが、
あの頃は鉄道利用の観光客やハイカーなどが多かったのでしょうね。


面白かったのは名鉄キハ8000系『北アルプス』の間合い使用です。
立山駅に到着した『北アルプス』のキハ8000は暫し休息の後、
『アルペン特急』として宇奈月温泉へと向かいました。
宇奈月で一夜を明かし、翌日また『アルペン特急』で立山に戻り、
折り返し『北アルプス』となって新名古屋へと出発していました。
鉄チャン的には美味しいネタですよね~
ボクも地鉄内で何度かキハ8000を撮影しましたが、
『アルペン特急』はあまり撮っていないように記憶しています。


当時の時刻表を見ると、急行『むろどう』の主要駅時刻は次の通りです。
名古屋23:49 → 岐阜0:15/0:22 → 下呂1:56/1:57 →
高山2:54/3:01 → 富山4:36/4:45 → 立山5:40


立山駅に到着したのは早朝5:40。
立山砂防事務所が稼働し始めるまでは何をしていたのでしょう?
全く覚えていません。


また、この日はあいにくの空模様でした。
朝からずっと雨が降り続き、マトモに撮影することが出来ませんでした。

ネガのコマを追ってみると、8:00発の貨物を組成する前までしか写っていませんので、
恐らく早々に諦めて千寿ヶ原を立ち去っているのではないかと思います。








朝の千寿ヶ原構内。未だ軌道は動き始めていません。
人気もなくガラーンとした構内。真夏なのに少し肌寒かったように記憶しています。
雨の降りしきる中、車庫のシャッターが開きました。
DLたちが目覚め、今日の仕業に就きます。
当時は酒井DLの独壇場でした。
これから資材列車の組成に入るのでしょうか。








立山砂防軌道を訪れるのは昨年に続いて二度目です。
前年は尾小屋鉄道などと掛け持ちで巡っていたため、ほんの僅かな時間しか滞在できませんでした。
尚且つ降雨にめげてマトモな撮影をしていません…(-_-メ)

『今度こそは!』
と思って訪問したにもかかわらず、またもや雨降りでした。








酒井の単機が降りて来ました。
雨は降り続き、撮影を続ける気力を失ったようです…
恐らく、これから列車が続々と出発するのでしょうが…(-_-;)
撮影を断念し、一旦千寿ヶ原を離れることにしました。









この後、どのような行動をとったのかは記録がありませんし、
ハッキリとした記憶もないので定かではありません。

が、地鉄と北陸本線を乗り継いで糸魚川へ行き、東洋活性白土を訪れています。
少~し覚えているのは、雨降りならば活白の方がマシではないかと考えたこと。
山間で暗い立山よりも、平野の活白の方が明るいし、雨の蒸機は風情があるし…
そう判断したのだと思います。なんか覚えてるし…

しか~し!
この日は工場がお休みだったようで、活白の汽車は動いていませんでした。
どっひゃぁ~! 何しに来たんじゃぁ~!
(T_T)/~~~









閑散とした工場内…
建物内に延びる軌道。
かな~り短い軌道ですが…(?_?)








立山に続いて糸魚川でも撃沈…(+o+)

でも、へこたれずに青海と親不知へ行きました。
二ヶ所とも鉱山を擁する駅で、何かしらがあるのではないかという思いからです。

確かこの界隈の五万図には怪しげな軌道や索道の記載がありましたので、
全く根拠の無い手探りという訳ではありませんでした。

しかし、この当時は軌道に関する情報は皆無に等しく、
『行ってみたが空振り』なんてコトは当たり前。
とりあえず『クサイ処』には足を向け、見っけたら儲けモノ!
というノリで行動していました。

青海駅周辺では1067mm軌間の専用線しか確認できず撤収。
親不知ではインクラインと索道があっただけで、ナロー軌道とは出会えませんでした。








日本海に面した親不知駅。左が索道小屋です。
北陸本線の上空を索道が横切っていました。
駅に隣接する鉱業施設。
ひたすら単調にバケットが行き交っていました。
雨空に蠢く怪しげな物体。
山上に延びていたインクライン。逆U字の鉄柱は索道防護用か?
右下にボクの銀箱!懐かしー!
ゲージは914?1067か?小さなホームが可愛いですね。







この索道、インクラインについての詳細は全くの不明です。
訪問当時は色々と調べたような気がしますが、記録も記憶もありません。

ただひとつだけ、これらが写っているネガカバーには
『上越鉱業 親不知』
と、記載されています。

上越鉱業という会社は現在でも存在し、タンカルを製造しているようです。
本社所在地が親不知の近くなので、やはりこの会社の施設と考えて良さそうです。
索道の起点周辺で石灰石が採掘され、それが索道で運ばれていたのでしょう。
インクラインは鉱山との連絡運搬用だと思われます。
もしかすると鉱山にはナロー軌道があったりして…
なんて想像をすると、当時ちゃんと行動しなかった自分を責めてしまうので止めておきましょう(笑)



この日の撮影は親不知で終了しています。
糸魚川に宿泊したのか、う~ん、どうだろう…覚えていません…。
北陸周遊券駆使で急行『立山』の敦賀往復をしたかな?
あれは疲れるんですよ~
知ってますか?(笑)









【1977年 8月 8日撮影】







ペンタックスMX



ペンタックスSP-F
















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1977.8.9 東洋活性白土へ


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