京都市電



昭和50年 11月 4日(火) 撮影






昭和50年は、ボクの鉄チャン史上で最も活動が疎かになっていた時代です。
まっ…
色々と他に楽しんでいたワケなのですが…
(ーー゛)

生活も荒れていて、まあ鉄チャンどころではなかったですけれど(笑)
そんな時代の秋、広島に行く用事が出来ました。
広島は親父のルーツで、当時は未だ親戚がたくさんおり、
なにやら法事があって何故かボクが駆り出されたのです。
きっと親父は仕事が忙しくて行けなかったのでしょう。
確か
『交通費と滞在費は出すから行ってくれ』
みたいな感じだったんだと思います。

鉄チャンと疎遠になっていたとはいえ、やはり何かがウズいたのでしょう、
ちゃんと撮影モードで旅立ったようです。
困ったことに記録、記憶共に殆どありません…
ネガのコマを追うと、往路には別府鉄道に立ち寄っています。
復路では京福電鉄叡山線でポール電車を撮影。
その帰り道に撮ったのでしょう、3枚だけ京都市電が写っていました。
特にこのあたりは記憶が全く無く、場所すら分からないという始末です…(-_-メ)

『撮影地不明』では仕方ないので、ストリートビューで探してみました。
叡電の後に撮っているのだから、きっと出町柳の近くではないかと…(・・?

で、あっさり見つかりました(笑)
やはり出町柳駅至近の今出川通でした。
















西陽を浴びた賀茂大橋を渡る1600型。




叡電の出町柳駅は鴨川のほとり、今出川通に面した場所にありました。
この写真は出町柳駅から河原町今出川方面に歩き、賀茂大橋の途中から撮ったようです。
ストリートビューによると、欄干の形状が一部変化していました。
1600型は昭和12年から95両が製造され、京都市電を代表する形式として活躍。
当時は未だ角ばった車体ばかりだった中、妻面を傾斜させた斬新なスタイルは好評で、
その後の京都市電車両の形状に大きな影響を与えました。
















河原町今出川交差点を右折し、河原町通を京都駅方面に向かう2系統。




2系統は京都駅~河原町今出川~錦林車庫~河原町丸太町~
千本丸太町~西大路四条~西大路九条を結んでいました。
これも1600型で、車内は立ち客が多く混雑しているようです。
後方の富士銀行は、現在はみずほ銀行となって残っていました。
電車の向こうを親子連れ家族が歩いていますね。
パパに抱っこされたお穣ちゃん、現在は推定42歳…(゜o゜)
















河原町今出川交差点を百万遍方面に向かう22乙系統です。




京都市電の系統番号で、最も大きな数字が22でした。
その22系統は歴史が複雑で、昭和30年の設定から53年の全廃まで
7度の経路変更と4度の受け持ち車庫の変更があったそうです。
また、同時期に二種類の22系統が存在したことがあり、
更に運行線上に重複区間があったため区別が必要とされました。
その際、新たな番号は与えられずに「22甲」と「22乙」に分類。
甲は白円板に22、乙は水色円板に22の系統番号が掲げられていました。
そんなことは、今回この記事を書くまで知りませんでしたが、写真を見ると水色円板が確認できます。
後方の時計は16:02くらい?
秋の夕方ですから、この時刻以降は一気に暗くなったのでしょうね。








たった3枚しか撮らなかった、昭和50年の京都市電。
せっかくカメラを持って京都を訪れているのに、何でもっと撮らないのか…(-_-メ)
もったいないですね~









ペンタックスSP-F











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